タイトル:
私をカウンセリングに導いた出会い【マルだけの世界との出会い】担当:
舞原 惠美----------------------------------------------------
ものごころついた時から、ずっと「なぜ」「どうして」を発し続けていたような気がします。
「なんで寒くなると木の葉は落ちるの?」
「なんで花には赤や黄色やいろいろな色があるの?」
「なんで水にぬれると色が変わって見えるの?」
いつも散歩に連れて行ってくれていた祖母は
「いちいちうるさいなぁ、この子は。なんでなんでって。どうでもいいことばっかり!」
「なんで足でドアを開けたらあかんの?」
「なんで歩きながらアイスクリームを食べたらあかんの?」
父は怒って、「理屈ばっかり言うな。はい、って親の言うことを聞いてたらいいねん!」
いつもいつも大きなペケをもらいました。
それでも止むことなく発し続けられる問いは、だんだん表出されることはなくなり心の中にただただ積もっていきました。疑問を持つことはいけない行為なんだという自己否定の重さとともに。
学校に行くようになると、私の「なぜ」は一気に認められ解放されました。勉強は「問い」と「答え」の連続ですから、思いっきり「なぜ」に取り組めます。
けれども、ここでもまたペケが待ち受けていました。算数などはいいのですが、国語や社会などは、自分の意見と「解答」とされているものが一致しないことのほうが断然多かったのでした。「なぜ」違うのか、先生の説明を聞いても分からず、なんだか自分の思ってることに確信が持てなくなっていきました。
中学、高校と、私の思春期を表わすには「孤独」の一語で事足ります。表面的な付き合いは如才なくできてしまうので、日常生活に支障をきたすことはありませんでしたが、人と一緒にいるのが苦痛でした。人と話しているとどうしても「なぜ」と問いかけたくなります。そして、それは人にとっては鬱陶しいことであり、距離を作るものなんだと、何度かの経験から思い込むようになりました。
私は「なぜ」を封印しました。心の中でさえ、湧き出てくる問いを無視するようになりました。
「いちいち関わりあってたらやっていけへんし、周りともうまくいかんのよ」
こうやって、早○○十年、自分の純粋な気持ちを押さえ込んでいたということですよね。
表面的な人間関係に慣れてしまった私は、あまり深く考えず結婚し、そこで「人生なめたらあかんぜよ」という体験をさせてもらうことになります。
それは息子のごはんを作るため卵を焼いていた時の事。ふいに、どうしても無視できない、いくら考えないようにしようとしても心にのしかかってきて離れない「なぜ」と出会ってしまいました。
我が子の世話をすることに喜びを感じていない自分がいました。ご飯を作るのも勉強をみるのも、やっつけ仕事としてやっている事に気づいてしまいました。煩わしい。面倒くさい。
息子が幼い頃は、いくら世話が大変でも、その大変ささえいとおしく思えたのに。
最愛であるはずの我が子より自分のほうが大切だと思う私は、人間として欠陥があるのではないかと真剣に悩みました。それまでは、人と深くつながることを諦めていたために、そんなに悩むこともなかったのです。本を読み漁りいろんなセミナーにも出たりもしました。けれど、自分は足りない、できていないという罪悪感は強まるばかりでした。
そんな頃、あるセミナーで知り合った方からカウンセリングを受けてみないかというお話を頂きました。私はその方をとても尊敬していましたので、二つ返事で決めました。その時はまさか自分がカウンセラーになるとは思いもよりませんでしたが、なぜか、今までの「問い」の答えが見つかるような、根拠のない期待に胸がふくらんだのを覚えています。
さて、実際のカウンセリングでの体験を言葉で表現するのはとても難しいのです。ちょっと抽象的になってしまうのですが…。
今までの「問い」の全てに、答が見つかったというよりは、マルをもらったという感じでしょうか。そういう「問い」が出てくるのも当然です、と受け止めてもらえ一緒に考えてもらえた体験で、初めて私自身が私を受け入れられる実感を持てたのでした。「問い」=「私の輪郭」(他との境界線)であって、どんな自分でもマルをあげられると、「問い」自体が落ちてなくなっていく、と体感した経験でした。そして、人は人で癒されるという事。
いろんな事を考え続けることはできる。多くの理論や仮説を立てることもできる。けど、そんな問答は丸ごとそっくりただのうわごとにすぎない。「生」と直接結びついたなら、もう「問う」必要はないのだ、そんな満たされた思いを初めて持つことができました。
「
なぜ私は子供を一番大事にするよい母親ではないのか」という問いが落ちた私は、手を抜くことにもマルを出せるようになりました。こうして、まだまだ波風は立つにせよ、基本ご機嫌でハッピーになった天然ママは、息子とも笑って話せるようになり、以前よりはうんと好かれるようになりました。(どんだけ嫌われてたんだか…)
こうして改めて俯瞰してみると、ペケがあったからこそ悩み、悩んで答えを求めたからこそ素晴らしい人々との出会いがあり、そしてハッピーな今があるんですね。そして、アンハッピーを知っているからこそ今の有り難さも分かります。
一見ペケでも実はマル。この世はマルで満ちている。何を選ぼうと、それは自分のマルだという責任を持って生きること。言い換えればもともと全てマルだけれど、マルを維持するのは自分にかかっている、ということです。そして、もっといいマルがあれば選びなおすのもいい。そこにはなかなか厳しいものがありますが、全部マルだという安心と、取り組む勇気をサポートするのがカウンセラーだと思っています。
マルしかない世界へのナビゲーターという重大な役目を肝に銘じ、襟を正して努めようと日々決意を新たにしています。