Excite ブログ

<   2011年 07月 ( 6 )   > この月の画像一覧

「断捨離」で見えたもの


タイトル:「断捨離」で見えたもの
担当:松下 由衣
----------------------------------------------------

こんにちは。エキサイトカウンセラーの松下です。
今回のコラムでは、ちょっと前に私が体験したことを書きたいと思います。

以前から話題の「断捨離」。
不要なものを捨てることで、物への執着から開放されより自由に生きられる、という考え方に基づいているそうです。

私もブームに乗って、この断捨離にチャレンジしました。
とりあえず服を整理しようと思ってタンスを漁っていると、以前買ったまま着ていなかった服が、タグの付いた状態でぞくぞく出てきました。
それぞれに悩みながら買った、思い入れのある服たちなのですが・・・

どうも私は、買ったばかりの服に袖を通すことに抵抗があるようです。
たいていワンシーズンはそのまま保管し、翌年になったらようやく着る気分になる、という状態でした。(蛇足ですが、「寝かせる」と呼んでいました)
新品同様ですが、実際は昨年ものなので、ちょっと流行遅れになることもたびたびありました。


欲しくて買ったはずなのに、すぐに着ないのはなぜ?

買った後に好みが変わったわけでもありません。
もったいないのかな?とも思いましたが、翌年になると、躊躇していたのが嘘のように着られるのです。


なぜだろう?と疑問に思い、試しに買ったばかりの服を着て夫に見せてみました。
「いいじゃんそれ!いつもそういうの着ていればいいのに。」
「何で昨日、それ着なかったの?」
(前日食事に行っていた。もちろん寝かせた服で・・・)

そこで気づきました。
流行の服を着ること、そして人からほめられることを自分に許していなかったことに。
自分を必要以上に低く見て、「あなたは価値がないから、流行に合っていない、古い服を着るべきである」という足かせをはめていたことに。


すっきりした私を見て、夫はわけがわからないといった顔をしていましたが。


それ以来、少しづつですが、服を寝かせることなく着られるようになりました。

断捨離を通じて、意外な自分の潜在意識に気づいた体験でした。
[PR]

by exkokoro | 2011-07-22 15:50 | 生活・生き方 | Comments(0)

マルだけの世界との出会い


タイトル:私をカウンセリングに導いた出会い【マルだけの世界との出会い】
担当:舞原 惠美
----------------------------------------------------

ものごころついた時から、ずっと「なぜ」「どうして」を発し続けていたような気がします。
「なんで寒くなると木の葉は落ちるの?」
「なんで花には赤や黄色やいろいろな色があるの?」
「なんで水にぬれると色が変わって見えるの?」

いつも散歩に連れて行ってくれていた祖母は
「いちいちうるさいなぁ、この子は。なんでなんでって。どうでもいいことばっかり!」

「なんで足でドアを開けたらあかんの?」
「なんで歩きながらアイスクリームを食べたらあかんの?」

父は怒って、「理屈ばっかり言うな。はい、って親の言うことを聞いてたらいいねん!」

いつもいつも大きなペケをもらいました。
それでも止むことなく発し続けられる問いは、だんだん表出されることはなくなり心の中にただただ積もっていきました。疑問を持つことはいけない行為なんだという自己否定の重さとともに。

学校に行くようになると、私の「なぜ」は一気に認められ解放されました。勉強は「問い」と「答え」の連続ですから、思いっきり「なぜ」に取り組めます。
けれども、ここでもまたペケが待ち受けていました。算数などはいいのですが、国語や社会などは、自分の意見と「解答」とされているものが一致しないことのほうが断然多かったのでした。「なぜ」違うのか、先生の説明を聞いても分からず、なんだか自分の思ってることに確信が持てなくなっていきました。

中学、高校と、私の思春期を表わすには「孤独」の一語で事足ります。表面的な付き合いは如才なくできてしまうので、日常生活に支障をきたすことはありませんでしたが、人と一緒にいるのが苦痛でした。人と話しているとどうしても「なぜ」と問いかけたくなります。そして、それは人にとっては鬱陶しいことであり、距離を作るものなんだと、何度かの経験から思い込むようになりました。
私は「なぜ」を封印しました。心の中でさえ、湧き出てくる問いを無視するようになりました。

「いちいち関わりあってたらやっていけへんし、周りともうまくいかんのよ」
こうやって、早○○十年、自分の純粋な気持ちを押さえ込んでいたということですよね。

表面的な人間関係に慣れてしまった私は、あまり深く考えず結婚し、そこで「人生なめたらあかんぜよ」という体験をさせてもらうことになります。

それは息子のごはんを作るため卵を焼いていた時の事。ふいに、どうしても無視できない、いくら考えないようにしようとしても心にのしかかってきて離れない「なぜ」と出会ってしまいました。
我が子の世話をすることに喜びを感じていない自分がいました。ご飯を作るのも勉強をみるのも、やっつけ仕事としてやっている事に気づいてしまいました。煩わしい。面倒くさい。
息子が幼い頃は、いくら世話が大変でも、その大変ささえいとおしく思えたのに。

最愛であるはずの我が子より自分のほうが大切だと思う私は、人間として欠陥があるのではないかと真剣に悩みました。それまでは、人と深くつながることを諦めていたために、そんなに悩むこともなかったのです。本を読み漁りいろんなセミナーにも出たりもしました。けれど、自分は足りない、できていないという罪悪感は強まるばかりでした。

そんな頃、あるセミナーで知り合った方からカウンセリングを受けてみないかというお話を頂きました。私はその方をとても尊敬していましたので、二つ返事で決めました。その時はまさか自分がカウンセラーになるとは思いもよりませんでしたが、なぜか、今までの「問い」の答えが見つかるような、根拠のない期待に胸がふくらんだのを覚えています。

さて、実際のカウンセリングでの体験を言葉で表現するのはとても難しいのです。ちょっと抽象的になってしまうのですが…。

今までの「問い」の全てに、答が見つかったというよりは、マルをもらったという感じでしょうか。そういう「問い」が出てくるのも当然です、と受け止めてもらえ一緒に考えてもらえた体験で、初めて私自身が私を受け入れられる実感を持てたのでした。「問い」=「私の輪郭」(他との境界線)であって、どんな自分でもマルをあげられると、「問い」自体が落ちてなくなっていく、と体感した経験でした。そして、人は人で癒されるという事。

いろんな事を考え続けることはできる。多くの理論や仮説を立てることもできる。けど、そんな問答は丸ごとそっくりただのうわごとにすぎない。「生」と直接結びついたなら、もう「問う」必要はないのだ、そんな満たされた思いを初めて持つことができました。

なぜ私は子供を一番大事にするよい母親ではないのか」という問いが落ちた私は、手を抜くことにもマルを出せるようになりました。こうして、まだまだ波風は立つにせよ、基本ご機嫌でハッピーになった天然ママは、息子とも笑って話せるようになり、以前よりはうんと好かれるようになりました。(どんだけ嫌われてたんだか…)

こうして改めて俯瞰してみると、ペケがあったからこそ悩み、悩んで答えを求めたからこそ素晴らしい人々との出会いがあり、そしてハッピーな今があるんですね。そして、アンハッピーを知っているからこそ今の有り難さも分かります。

一見ペケでも実はマル。この世はマルで満ちている。何を選ぼうと、それは自分のマルだという責任を持って生きること。言い換えればもともと全てマルだけれど、マルを維持するのは自分にかかっている、ということです。そして、もっといいマルがあれば選びなおすのもいい。そこにはなかなか厳しいものがありますが、全部マルだという安心と、取り組む勇気をサポートするのがカウンセラーだと思っています。

マルしかない世界へのナビゲーターという重大な役目を肝に銘じ、襟を正して努めようと日々決意を新たにしています。
[PR]

by exkokoro | 2011-07-14 11:43 | カウンセリング | Comments(0)

制限の枠を超えていく


タイトル:制限の枠を超えていく
担当:樹 真穂
----------------------------------------------------

自分の中に恐怖があるなと感じて、この恐怖を使って
狭い箱の中にいるのは居心地悪いと思った私。

どこまでも広い自由なところに出ていこう!
そう強く意図して、恐怖を手放すことにしました。

感情を手放すとき、力みも価値判断も何もなく、
「これを手放していけるんだ」という
深い感動がでてきました。
そして、手放す前から、これを手放せるということが
はっきり分かり、とても深い感謝の念が下からこみあげて
くるものがありました。

慣れ親しんできた感情。
でも、今の私はその感情を使うのではなく、それを
手放して、大きな源の本当の私へとつながっていこう
としている・・・。

私は溶けていきました。
古い、もういらなくなった恐怖の波動が
溶けていきました。

さっきあったものが、今は何もない。
身体と心がとても軽やか。
穏やかで、平和と調和だけを感じる。
現実がとてもやわらかい。
ただただ広がりのある私。

私が呼吸すると、すべてが同じように呼吸するような感覚。
心地いい。気持ちいい。
ぶつかりどころのない制限の枠を超えていく。
[PR]

by exkokoro | 2011-07-12 14:10 | 心とからだ | Comments(0)

必要なストレス?ストレスが成長の源になることも


タイトル:必要なストレス?ストレスが成長の源になることも
担当:佐藤 文
----------------------------------------------------

こんにちは、佐藤 文です。

突然ですが、皆さんはストレス抱えてますか?
人は多かれ少なかれ、必ずといっていいほどストレスを抱えています。

先日、友人がこんなことを言っていました。

「上司がいないとやる気が出ない・・・」

この友人、上司とはなかなかソリが合わず、上司と何かあるとイライラして愚痴っぽくなっているか、落ち込んでいるかなのですが、
最近はその上司とすれ違いであまり話ができないよう。

すると…

「契約がとれても、とれなくても何も話さないし、どんな内容で話をしたかも聞かれない…
なんだか、最近の自分は『なあなあ』になっている気がする…
上司がいたらいたでイライラするんだけど、いないとモチベーションが上がらない」

上司の存在がストレスでもあるけれど、友人の「やる気の元」でもあるわけですね。

人間って不思議なもので、上司やライバル(仲が悪いほうがより効果を発揮する)、子どもの頃なら兄弟など競争相手や、障害があるほど燃えるところがあります。
心理学的にも、「ストレスは多少あったほうがいい」ともされています。
一人暮らしが長い方は、共同生活をしている方と比べストレスは少ないですが、逆に協調性がなくなっていきワガママになりやすい、なんてことも言われています。

激しいストレスは精神を壊しかねないですが、適度なストレスは「成長の源」なんですね

私自身も、友人に改めて気づかされました。

苦手な人や、嫌いな物事から逃げてばかりいないで、時には向き合ってみるのも、「成長」につながるものです。

友人には、
「自分から上司に、色々相談してみたら?」というと、反発していましたが(笑

けれどもそこは、友人にとって「上司としっかりと向き合っていこう」というサインなのかもしれません。

人間は周りから何も言われなくなれば、どんどん自分に甘く、わがままになり、『なあなあ』になっていくことでしょう。

「ストレスを与えてくれる=成長させてくれる」周りの存在に感謝ですね。

佐藤 文
[PR]

by exkokoro | 2011-07-08 11:39 | 心とからだ | Comments(0)

自分自身に力があるということ。


タイトル:自分自身に力があるということ。
担当:樹 真穂
----------------------------------------------------

変えていく力はすべて、自分の中にあるということ。
それを外にフォーカスすることで、あたかも相手に
何かされているような、相手が変わってくれないと
何も解決することが出来ないかのような錯覚をする
ことが出来ます。

これをし始めると、延々と錯覚の海の中を泳ぎ続ける
ことが出来ます。

相手を批判しても批判したりない、どれだけ愚痴を言っても
言いたりない・・・。
余計、感情の渦の中にのまれてしまいます。

唯一、自分の内側にフォーカスすることで、自分自身に
力が戻ります。
「私が私の人生を創っている」
あなたにとって、受け入れがたいことですか?
これは、素晴らしい真実です。
現実は自分の内側に何を持っているかを見せてくれて
いるだけです。

だから、あわてなくて大丈夫なのです。
だから、現実はいくらでも、どうとでも変えていけるのです。
[PR]

by exkokoro | 2011-07-07 11:37 | 心とからだ | Comments(0)

与えることは、私の本質


タイトル:与えることは、私の本質
担当:樹 真穂
----------------------------------------------------

過去に「この人にはもう愛情を与えない」と思ったことが
ありました。

与えない、そう決めたときから、私の何の中かが
止まったかのように感じました。
呼吸がとまるというか、とにかく自分らしくない
自分になったのが自分でよく分かり、ものすごく
気持ち悪いのです。

与えないと何が起きるというかというと、受け取れません。
ふたつは表裏一体なので、どちらか一方のみ、ということ
がありません。
与えた時点で、受け取れます。
与えることは、そういった性質をもっています。

なので、与えませんと宣言することは、受け取りませんと
宣言することになります。

でも、私たちはひとりで生きているわけではなく、
多くの人と分かち合って、助けあって生きているので
(ひとりで生きていると思う人も、食べ物や電気やガスや
水などを受け取っていますね)
そう宣言すること自体が不可能というか、不自然なこと
なのです。

不自然なことをすれば、当然、自分の中で違和感があります。
その違和感が気持ち悪くて、ふっと、「そうだった、私の
本質は与えることだっだ」と気づいてことがありました。

与えて、受け取るということ。
あなたの中の呼吸をとめないでくださいね。
[PR]

by exkokoro | 2011-07-01 12:58 | 心とからだ | Comments(0)

Copyright © Excite Japan Co., Ltd. All Rights Reserved.
免責事項 - ヘルプBB.exciteWoman.exciteエキサイト ホーム